戦没画学生の絵を集めた美術館の無言館には、日高安典さんが描いた未完の絵『裸婦』があります。
(戦没画学生:美術学校在籍中・後に出征して戦死した美術学生)
絵のモデルは日高安典さんの恋人です。
安典さんは『裸婦』を完成させるため「必ず生きて帰る」と
恋人に言い残して出征しますが、それが叶う事はありませんでした。
『裸婦』が無言館に展示されてから2年後の1999年夏、彼の恋人が無言館を訪れました。
50年ぶりに日高安典さんに会うために『裸婦』の前にに立ちました。
そして彼女は “感想文ノート” に想いを記して静かに去りました。
今回、日高安典さんの恋人が想いを記した無言館の感想文ノートを基にした朗読を紹介します。
彼女がモデルをした当時の状況や、50年後の今の想いが深くて胸に響きます。
【朗読】日高安典の恋人の想い
安典さんへ
安典さん、日高安典さん。
私きました。とうとうここへ来ました。
とうとう今日、あなたの絵に会いに、この美術館にやってきたんです。
私、もうこんなおばあちゃんになってしまったんですよ。
だって、もう50年も昔のことなんですもの。
安典さんに絵を描いてもらったのは・・・
でも今日は決心して鹿児島から一人でやってきたんです。
70を過ぎたおばあちゃんには、とってもとっても長い旅でした。
朝一番の飛行機に乗って、何十年ぶりかで東京の人ごみにもまれて
この遠い遠い信州の美術館にやってきたんです。
そして、そして・・・
あなたが私を描いてくれた絵の前に立ったんです。
安典さん、日高安典さん、会いたかった。
あれはまだ戦争が、そう激しくなっていなかった頃でした。
安典さんは東京美術学校の詰め襟の服を着て
私の代沢のアパートに、よく訪ねて来てくれましたね。
私は洋裁学校の事務をしていましたが
知人に紹介されて、美術学校のモデルのアルバイトに行っていたのでした。
いつの間にか、お互いの心が通じ合って
私の部屋で二人であなたの好きなベートーベンとメンデルスゾーンのレコードを聴いて・・・
楽しかったあの頃の事が、つい昨日の事のようです。
あの頃はまだ・・・遠い外国で日本の兵隊さんが
たくさん戦死しているなんていう意識などまるでなくて
毎日毎日私たちは楽しい青春の中におりましたね。
安典さん、あの小雨の降る下北沢の駅で
勤めから帰る私を傘を持って迎えに来てくれたあなたの姿を
今でも忘れていませんよ。
安典さん、私、おぼえているんです。
この絵を描いて下さった日のこと。
初めて裸のモデルをつとめた私が・・・
緊張にブルブルと震えて、とうとうしゃがみこんでしまうと
「僕が一人前の絵描きになるためには一人前のモデルがいないとダメなんだ」と
私の肩を絵の具だらけの手で抱いてくれましたね。
なんだか私・・・涙が出て・・・涙が出て。
けれど安典さんの真剣な目を見て、また気を取り直してポーズをとりました。
あの頃すでに安典さんはどこかで自分の運命を感じているようでした。
今しか僕には時間が与えられていない。
今しかあなたを描く時間は与えられていないと。
それはそれは真剣な目で絵筆を動かしていましたもの。
それが・・・それがこの20歳の私を描いた安典さんの絵でした。
そんな安典さんの元に召集令状が届いたのは、それから間もなくのこと。
あの日の安典さんは、いつもとは全く違う目をしていましたね。
そして私にこんな事を言っていました。
「もし自分が女に生まれていたら戦争に行く事などなく、この絵を描き続けていられたろう」
「しかし男に生まれたからこそ君に会う事ができて、この絵を描けたのだ」
「だから僕は幸せなのだ」と。
安典さんは昭和19年夏、出陣学徒として満州に出征していきました。
できることになら・・・できることなら・・・また生きて帰って君を描きたい、と言いながら。
安典さん、日高安典さん。
あなたの故郷の種子島は、今もハイビスカスの咲く美しい島です。
あなたは私が同じ鹿児島の人間だと知った時、
「奇跡だ!これは奇跡だ!」
「こんな広い東京で同じ故郷の人と会えるなんて」と
飛び上がらんばかりの喜びようでしたね。
今だから話せますが・・・私、実はもうあの頃、故郷には両親のすすめる人がいたのです。
でも安典さんに召集令状が届いた時、もう自分は故郷に帰らないと心に決めました。
安典さんが帰って来るまで、生きて帰ってきて、また私を描いてくれる その日まで。
いつまでもいつまでも待ち続けようと、自分に言い聞かせたのです。
それから50年・・・それはそれは本当にあっという間の歳月でした。
世の中も、すっかり変わっちゃって、戦争もずいぶん昔のことになりました。
安典さん・・・私、こんなおばあちゃんになるまで、とうとう結婚もしなかったんですよ。
一人で一生懸命 生きてきたんですよ。
安典さん、日高安典さん。
あなたが私を描いてくれた あの夏は・・・
あの夏は・・・私の心の中で、今も あの夏のままなんです。
1999年8月15日
無言館・感想文ノートより
(朗読:窪島誠一郎)
日高安典のプロフィール
日高安典 (ひだかやすのり)
1918年(大正7年)1月24日 生まれ
鹿児島県種子島 出身
- 1937年(昭和12年)4月
東京美術学校(現 東京藝術大学)入学 - 1941年(昭和16年)12月
戦争のため繰上げ卒業 - 1942年(昭和17年)
応召 - 1945年(昭和20年)4月19日
フィリピンのルソン島バギオにて戦死(享年27歳)
日高安典のエピソード
『裸婦』を描き続けたい想い
日高安典さんは、故郷の出征の行列に参加の日・・・
「あと5分、10分・・・この絵を描きつづけていたい」と、なかなか描くのをやめなかったそうです。
『裸婦』にサインがない訳
弟・日高稔典さん「同級生の話では・・・これは卒業する直前に安典が描いていた絵で
生きて帰ったら必ずこの続きを描くからと、モデルの女性に言い残して出征していったそうです」
さらにスケッチ帳の余白にはーーー
「小生は生きて帰らねばなりません絵をかくために」と書かれていました。
ですから満洲へ送った絵具箱・スケッチ帳は、安典さんの希望で自宅に送り返されました。
こうして絵の続きを描く強い決意によって『裸婦』にサインをしなかったようです。
『裸婦』の保管~引き渡し
鹿児島の実家にいた弟・日高稔典さんは、戦禍の中『裸婦』を豊島区長崎町のアトリエ村まで行って持ち帰り、保管していたそうです。
そして無言館に展示するため窪島さんに引き渡す際
「私ら家族にしてみたら、これでようやく兄の本当の葬儀ができた気持ちです」と
感謝の涙を流されたとか。
出征中の気持ちを詩にした
昭和18年8月26日の日高安典さんの日記
『詩』よりーーー
秋立つ鳥の飛ぶ方を見よ
秋立ちていつ帰りこん迷い鳥
秋立ちていつ帰りこんツンドラの苔
遺骨は帰らなかった
弟・日高稔典さん「遺骨一本もどってきた訳ではなく・・・
安典の名を書いた小さな紙切れが一枚入っている白木の箱一つが届いただけなんですから」
「いつも剛気で涙などみ見せる事のなかった母が、あの時だけは空の箱を抱いて、肩を震わせて泣いていたのを憶えとります」
まとめ・日高安典の恋人の想い
今回、日高安典さんの恋人が想いを記した無言館の感想文ノートを基にした朗読を紹介しました。
日高安典さんの「愛する人の絵を描き続けたい!」その情熱を一番そばで感じていたのは彼女だったのでしょう。
そして「生きて帰って続きを描く!」その願いが叶わなかった安典さんの無念を一番わかるのも彼女なんでしょうね。
無言館・館長の窪島誠一郎さんは・・・
「戦争で命は失われても、作品が残っている限り、彼らは死なない」と語ります。
50年たった今も彼女の中で日高安典さんは生き続けているのだと思いました。
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